ある男の話

男はひどく疲れていた。どうしようもなく疲れていた。そしてその上うちひしがれていた。涙が目ににじんだ。しかしどうして泣きたいのか良く分からなかった。男としては、過ぎてしまったことを悔いるほどの若さも老獪さも持ち合わせていないはずだった。客観的に自分を見ることができたはずだった。まるで高いビルから歩道を歩いている人を見るかのように自分を見られるはずだった。実際思い返してみると、取るに足らない下らない失敗のように思えた。しかし2時間ほど、身体も思考もまるで動かなくなってしまっていた。明日提出する書類があった。早く帰らなければいけない約束があった。理屈と状況は男が動くことを期待していた。男は席を立つと、会社をでてコンビニエンスストアに向かった。すべてはありふれた出来事であり、聞き飽きた出来事だった。たまたま自分の身に起こった出来事がひどく愉快で悲しいお話だった。本当にそれだけのことだった。

『明日になれば忘れるよ』

誰かが言った。確かにこれまでそうだったし、これからもそうである気がした。それでも男は何かが信じられなかった。無意識に信じることを拒否していた。その何かが男にははっきりとはわからなかった。それはおそらく自分であり誰かであり今日であり明日だった。事象であり思考であり概念だった。酒を飲み、皆と語らい、一晩寝てみたが状況は何一つ変わらなかった。


それは、おそらく男の人生そのものだった。


首の傾げ方や階段の上り方や挙手の仕方だった。ある女を見たときの感情や昨日の夢やブルーハーツの歌だった。どうすることもできなかった。ただ自分が静かに失われていくのを感じた。男は静かに目を閉じると、悲しく笑った。そして眠ることにした。